
マルコ醸造は平成11年におかげさまで創業100周年を迎えることができました。
ここまで続けてこられたのは地元の皆様をはじめ、支えてくださっている皆様のおかげと深く感謝をいたしております。
ここにはマルコ醸造百年の歩みといたしまして、マルコ醸造創業にいたるまでのいきさつ、これまでの経過などを物語風に掲載いたしました。明治・大正・昭和・平成の時代背景を思いながら、マルコ醸造の歴史を感じていただけると幸いです。(百周年記念誌より抜粋。文:林巌)

左:碁をうつ初代初治(左側)(2代目孝師撮影) 右:糸をつむぐ初代の妻 はま(2代目孝師撮影)


創業者初治と妻はま(昭和30年頃)
レトロ感覚で売る大正村にも、みそ初さんと呼ばれて親しまれたマルコ醸造の創業者初治を覚えている人はめっきり少なくなりました。
百年という時の重さをいまさらながら感じるこのごろです。もともと初治は恵那三郷の出身でした。農家の跡取りでいたってまじめな性格でしたが、なぜか食の好き嫌いが激しく、特に麦飯の麦の食感がどうにも苦手でした。
質素な明治時代の農家のことですから、麦も食えないのでは農家はむつかしかろうと、両親も折れて初治は跡を継がず好きな道を進むことを許されました。
さて、明治31年、親戚をたよって現在の明智町へ移り住んだ初治でしたが、最初に手がけた商売は味噌醸造ではなく、製麺業でした。
初治の製麺屋は頑固一徹のこだわり麺で次第にひいき客も増えていきました。
ところが麺造りも軌道に乗ったある日、石臼を引く水車に仕事を手伝っていた妻はまが手を巻き込まれ、身を挺して助けようとした初治も大怪我を負ってしまいました。
家族や働く人をもう二度と危険な目に合わせることはできないと、この事故を機に、20年間寝食も忘れ打ち込んできた製麺業をあっさりとたたんでしまいました。


初代初治の開店広告(大正10年1月18日開店)
それからしばらくは養豚や養蚕などの農業で、細々と食いつなぐ日々でしたが、当時しばしば出かけていた豊川稲荷詣でがひとつの転機となりました。
旅先のある町に土蔵の甍が建ち並び、ぐるりを高い黒塀に囲まれた、ひときわ目を引くお屋敷がありました。屋敷の前を通りかかると、手入れされた庭木の向こうから琴の音が聞こえ、初治には自分の住む世界とはまったく別の時間が流れている気がしました。
生活に追われ毎日泥まみれで過ぎていく我日々に比べ、世の中にはこんな暮らしもあるのかと驚き、門から出てきた奉公人らしき人に、お屋敷の主のご商売をたずねると、味噌・しょうゆ醸造とのこと。
その後も折に触れてこのお屋敷の前をとおるたびに何故か心引かれるものがあり、初治は一度きりの人生、自分もいつかあんな暮らしに近づきたいと、一度は捨てた商売への意欲が芽生えてくるのを感じました。
初治の心の中で、次第に明智の地で味噌醸造をはじめる決心が固まってゆきました。


初治が味噌を売り歩いたときに使った当時のレコード盤ケース。
中にはたくさんの当時の流行歌のレコードが入っている。
(蓄音機は日本大正村に寄贈)
大正当時のこと、家みそをつくった経験は初治にもあったにしろ、商いとして大量に、しかも同じ品質のものを作ることは簡単ではありませんでした。
もちろん味噌屋を名乗るからには、家庭で作る味噌よりおいしくなければ商売になりません。
納得した商品が完成するまでに4年の歳月が流れていました。
さて、初治の味噌は、材料にも製法にも、徹底的にこだわって作ったものだったので、味には絶対の自信がありましたが、予想に反して売れ行きはさっぱりでした。
当時の明智町では味噌は家庭でつくるもので、そもそも味噌を買うという習慣がありませんでした。また手前味噌という言葉があるように、子供の頃から親しんだ自家の味に慣れた人に、新しい味噌の味は、なかなか受け入れられにくかったのです。
商売をあきらめなくては、というところまで追い込まれたころ、初治は味噌樽と一緒に当時はまだ珍しかった蓄音機をリヤカーに積んで売り歩くことを思いつきました。
当時の流行り歌を流しながら、町内外を行くと、蓄音機見たさ、聞きたさも手伝って黒山の人だかりができるようになり、初治の味噌は町内外の皆様に支持されるようになりました。


2代目小木曽孝師
後ろの味噌桶の底には大正14年3月12日小木曽初治・・の記名等のほかに、
孝師が書いたと見られる「小木曽孝師九才」の文字がある
さて、商売を軌道に乗せた初治でしたが、悩みは後継ぎに恵まれないことでした。
しかし、齢45歳を過ぎた頃縁あって、親戚筋から乳飲み児の孝師を養子に迎えました。初治夫婦の愛情を一身に受け、孝師はのびのびと成長しました。孝師は多趣味、多才な人間に育ち、水彩、油絵、カラオケ、ゴルフ、鮎かけ、へぼ採り、囲碁と仕事ばかりでなく、趣味にも大いに才能を発揮し、また地元の商店街や消防などの地域活動にも進んで汗を流しました。こうして地元の人に支えられながら、養父を手伝って事業を拡大させてきた孝師は、昭和27年、マルコ醸造を有限会社に昇格させるのを機に2代目社長に就任しました。
マルコ醸造の社業は孝師の代になって高度成長期の追い風も手伝って、順調に推移しました。昭和47年の岐阜県しょうゆ協業工場設立の際にも中心人物の一人として重要な役割を果たしました。
山郷の静かな町であった明智町にも開発の波は押し寄せ、富士カントリー明智コース、旭カントリーなどのゴルフ場も次々にオープン、日本大正村として明智町がマスコミで取り上げられることもたびたびで、明知町を訪れる都会の人も急増しました。孝師はゴルフ場の売店にも積極的に営業をかけ、店を直接訪れる観光客も次第に多くなりました。こうして地元以外にもマルコの味噌・漬物を求めるひいき客も増えていきました。
初治が創業し、二代目孝師が大きくし、昭和51年には株式会社になったマルコ醸造でしたが、「伝統の技にのっとり最高の素材を使って本物の味を追及する」というポリシーはまったく変えることはありませんでした。


左三代目社長 啄二 右二代目社長 孝師
(平成10年中国内蒙古アルシャン盟にて)
さていつしか味噌業界は大手メーカーによる速醸が全盛の時代を迎え、マルコのように長い間じっくり寝かせて熟成させる昔ながらの製法は、商売になりにくい時代を迎えようとしていました。同業者はもっとそろばん勘定にあいそうな副業に手を出して失敗したり、転業したり、あるいは蔵を閉める醸造元も増えました。
不器用なようにみえても昔ながらの手づくりの製法を捨てなかったマルコは気がつくと恵那、中津川管内で唯一の味噌醸造を商いとする会社になっていました。
昭和58年に社長に就任した三代目啄二でしたが、彼もまた初代・二代目と受け継がれてきた創業以来のやり方を変えるつもりはありませんでした。
しかし同時に、初代2代とこだわり続けてきたポリシーを維持するのがだんだん日本ではむずかしくかったことを身をもって感じていました。
そこで平成5年、株式会社天外天を設立。
啄二は雄大な中国内モンゴルの大地に目をむけ、農薬や添加物とは無縁の緑の平原のなかで味噌作りに挑戦することを決心しました。マルコと同様のポリシーを持つ全国の味噌会社にも声をかけ、内モンゴルの東北部烏蘭浩特(ウランホト)に集い、原料、製法に徹底的にこだわった味噌作りがはじまりました。
原料は中国政府による無農薬認定であるグリーンマークを取得した良質なもののみを使用。完全無農薬で育てられた最上級クラスの米、有機無農薬栽培で育て一粒一粒、手選別した丸大豆、大地の滋養をたっぷりふくんだ天然の岩塩、さらに霊石・麦飯石で磨いた清な水。こうした良質な原料を素材にモンゴルの方々と手を取り合って、無農薬味噌作りに励み、それを元味噌に、明智の地でじっくり熟成させて、美味しくて体に良いマルコならではの味噌に仕上げています。

マルコ醸造は、初代が基礎をつくり、二代目が全国へ、三代目は世界を視野に入れる会社へと成長させました。
現在マルコ醸造は4代目小木曽智彦が跡を継いでおります。
先祖への感謝の気持ちを常に忘れることなく、4代目らしいマルコ醸造を作っていきたいと考えています。
